
1987年ごろ。日本は未曾有の好景気に沸き立ち、多くの大人たちがバブル崩壊の渦に飲み込まれ、その家族も憂き目を見ることになった。
当時4歳、そんなことを知る由もなく、バブルとは無縁の家庭で私は育ち、片田舎で無邪気に遊ぶ日々を送っていた。
株式会社ライクブルーの池田治彦です。
過去を振り返ってみると、たった一つの点と、そして偶然その隣にあった点とが、ひとつなぎに結ばれていたことに気づきます。そして、その細い線がやがて脈打ち始め、重大な意味を自分にもたらしていた。会社が10周年を迎え、なぜ今私がこのように会社経営をしていられるのか。「ただ運が良かっただけ」― この一言に尽きることを、つくづく実感しています。
2024年、リベンジ当選を果たしたトランプ大統領から、副大統領に指名されたJ.D.ヴァンスは1984年生まれ。私が書いているこの文章は、親友から勧められて読んだヴァンス副大統領の著書『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』から、着想を得ています。同時代に海の向こうで生まれた人がまったく異なる境遇で、しかしどこかしら通じる生き方をしていたことを知り、非常に興味深く読みながらも、私の中でいくつかの疑問が湧いてきました。「では、自分が育った1980年代以降の日本とはどのような時代だったのか」、「なぜ私は、同じ環境で育ったり、教育を受けた人たちと異なる道を歩んできたのか」、「私たちの世代に特徴的な価値観とは何なのか」、「今を生きる私たちは、一体どこへ向かおうとしているのか」。
これから続く文章では、一年ほどかけてこれらの疑問に自ら答えつつ、私が作ったライクブルーという会社のあり方について紹介していくことを試みます。
むしろ、飽き性の私が最後まで書ききれるか、不安の方が大きいのが正直なところです。まずは、私が生きてきた42年という時間の重みを感じながら、これまで関わってくださった方々への感謝を胸に、この長い道のりへの一歩を踏み出したいと思います。
地方の田舎町で育つとはどういうことか
私が生まれ育ったのは福岡県の郡部にある町。何の変哲もない住宅街で、子どもたち相手にピアノを教える母と、職を何年かおきに転々とする中卒の父親、やや年の離れた二人の兄のもとで毎日を過ごしていた。地元の町立小学校、町立中学校に通った。やっていたことは仲の良い友達と遊び、テレビゲームとマンガ、アニメを観るくらいだった。私たち80年代生まれはコンテンツと共に育った世代である。毎日必ず17時30分に帰宅する父親の、車のエンジン音がすると急いでテレビを消して、何か別のことをして遊ぶ。威厳や畏怖とかではない。単にそれが当たり前だった。父親はよく酒を飲み、野球の試合を観ながらテレビに向かって文句を言い、筑豊出身の強気な母親とよく口喧嘩をしていた。
今思えば、三人の子どもを育てながら仕事をするのに両親とも精一杯だったのだろうし、三人目ともなると放置が基本で、私はとにかく周りがやっていることをよく観察し、何が話されているのかを黙って聴き、極度の人見知り状態ながらがんばって学校へ行き、あれをしろこれをするなと親から言われることもなく、適度に自由な環境で育っていった。
勉強のことを少しだけ書いておくと、後に出会う数多くの神童たちに比べれば、私には特に目立ったことは何もなかった。勉強をしろと言われたこともないし、なぜか家に定期的に届く「勉強成功マンガ」を読んでは捨て、塾に通う経済的余裕などもなく、自分が勉強ができるなど全く思うことなく中学生まで育った。「偏差値」というどこか不穏な響きのする言葉を知ったのは中学三年生くらい。英語の勉強が特に好きでNHKの英語関連ラジオをよく聴き、数学はずっと苦手だった。
恐らく、私の進路の大きな影響要因は、母親が開明的な考え方の持ち主で「福岡(という狭い世界)から出なさい」と時折口にしていたことと、父親に限っては全く何も言わなかったことだろうと思う。小学生の時に一度東京に連れて行かれ、またその後に兄がいた東京に一人で会いに行き、何となく将来は東京に行くんだろうなと思っていた節がある。とはいえ、小学校の卒業アルバムに「夢はサッカー選手」と、当時Jリーグの発足もあり無邪気に書いたものだった。中学生では一時期音楽家を夢見るも諦め、それがなぜか裁判官に変わり、高校では国連職員か海外をまたにかけて仕事をすることに変わっていた。自分でもよくわからないが、私にとっての10代とは揺れ動くものであり、何も定まっていないのに定まったような、純粋無垢な精神状態で過ごす時代だったのだ。
県立の進学校とされる高校に入学して初めて、生まれ育った町とは全く異なる人たちと出会った。一種のカルチャーショックを受けた私は、どうやらそれを解消しきれずに、どこかしら馴染めない違和感の塊を心の片隅にそっと置いたまま、卒業まで過ごすことになった。小学校と中学校はその地域に一つずつしかなかったため、9年間をよく見知った人たちと過ごしていた。話される内容はいつも同じようなもので、考え方や感じ方も「そういうものだ」と咀嚼することなく受け入れられていた。しばらくして昔の同級生たちの進路について知ったが、120名のうちの多くの人は大学に進学していなかったし、高校を中退して子どもを生み育てる人もいたらしい。いずれにせよ、それぞれの生き方に私は何の疑問も抱かなかったし、何がいいとか悪いとかも思わなかった。それは年齢を重ねた今でも変わらず、「同列に並んだ違い」でしかないと思っている。
家の近所に、九大(九州大学、福岡にある国立大学・旧帝大)卒業を自慢する人がいると母親から聞いたことがある。当時は大学に行く意味などさっぱりわからなかったが、誰がどこでどうしていたとか、どうなったとか、あの夫婦はどうだとか、田舎町ならではのネットワークにより、それが重要かどうかもわからないウェットな情報が周りにあふれていた。それが嫌だとかは感じなかったし、好き好んでいたわけでもない。ただ、そういうのが当たり前だった。
田舎町で生まれ育つ人々にとって、私の感覚では、基本的に選択肢がいつの間にか限られているように感じる。疑問を持つことなく、疑問を持ったとしてもどうしようもない。抜け出すには相応の努力と犠牲が求められる。しかし、それは都会で育った人々も、異なる様相ではあるが同質の体験をしていると今では理解している。極端な例でいけば、乳幼児の早い段階で進路を宿命のように決められたり、幼稚園や小学校受験、中学受験で得体も知れない社会の何かに選別され、お前の行く道はこれなのだと示され、ある人は葛藤を覚えながら、ある人は素直に、その道を歩んでいく。高校に入って「生まれる前から九大に行くことが決まっていた」と周りが話すのを聞いて、そんな人生もあるものかと驚いた。ただ、東京のそれはもっと過酷に見えるし、地方都市でも医者の家族や高学歴の家庭に育った子どもは、何かしらを背負ってこの世に生れ落ちていることもあるという。私自身は、輝ける未来を示されたわけでも、俺達にはこれしかないんだと言われるわけでもなく、将来などあまり考えることなく淡々と日々を送り、目の前にあるいくつかの道からひとつを選び取っていったにすぎない。その先に何が待ち構えているか全く知る由もなく。
私が一浪の末に大学に合格したとき、父親は電話口で喜んで「おお寿司、寿司頼め」とだけ言った。おめでとうとかよくがんばったとか、そんな言葉は無かったし私自身が求めてもいなかった。それは高校合格の時も同じだったし、その後に何か言われるわけでもなく、母親もまぁまさかそんなことあるのねくらいで、私に何かを期待した様子も全く無かった。後日談だが、父親はこれチャンスとばかりに銀行にお金を借りに行ったが、ほうほうの体で追い返され、息子の学歴は親の信用力に何の影響ももたらさないことを学んだらしい。
そのような経験から、地元の同級生たちを見ても、子どもの進路や人生が親の事前の期待や満足とほぼ無関係であるのは、田舎町で育った私たちにとって共通の本質的な価値観であるように思う。もちろん例外はある。実際、仲の良い同級生のひとりが私と同じ大学予備校(私の母校に併設されていたいわゆる「高校4年制クラス」)に父親の希望で入れられたが、授業の内容について行けないと別の予備校に移っていった。福岡でも都会の親たちの考えは少し違ったようであるし、東京では親の期待や意向を子どもの人生に反映させることもそれなりにあるらしい。私たちの普通と例外の程度が、大きく入れ替わっているのが都会なのかもしれない。
ここまで書いてきた環境で育った私にとって、一つのキーワードは「自由」だろう。しかし、経済的な制約はかなりあった。それでも両親はかなり子どもたちのために努力してくれた(低所得で子ども三人を県外の大学に行かせるなどほぼ不可能であったし、もちろん私たちは奨学金を活用することにもなって、私は今もなお、その返済を続けている)。そして、狭い世界ではぐくまれた発想など貧弱なものであるし、何より世間を知らなかった。生まれ故郷のあり方に共感や同調、親近感を覚える私 - つまり、田舎者 - にとって、東京の街はあまりにも混沌としていて、あまりにも深すぎた。東京はまた、私なりの価値観を形づくり、次の生き方に決定打を与える場所にもなる。
(次回に続く)